昭和46年01月10日 朝の御理解
御神訓 一、「わが身はわが身ならず、みな神と皇上との身と思い知れよ。」
大変難しい御神訓です。今の時代にぴったりしないという感じが致しますね。その神と皇上と、書いてある、皇上を皇上(こうじょう)と書いてありますね。天皇陛下です。戦時中までは教会に何処にでも、このみ教えを貼ってある、書いて貼ってありましたほどしに、このみ教えは大事にされたんですよね。所が終戦そして此の方というものが、この御神訓の中から、このみ教えは、妥当じゃないとしてですね、是はもう御神訓、教典の中から削っても良くはないかと言った様な話すらが、あっておるくらいです。
丁度今日、私も大変その様に難しい、しかし神様のご神意を頂きますとね、矢張りそんな訳にはいけない。という事をまぁ感じますけれど。この「わが身はわが身ならず、みな神と皇上との身と思い知れよ」という、みな神としてのいう事だけだったら分かるですね。自分の身じゃないやっぱり神様の身であるという事が、よう分かりますけれどもね。で私今日はこの皇上という事。
下の方の皇上と言う事について、是は今日はどの様な御理解を頂かせて貰うたらよかろうかと思うてね、こちらお願いさせて貰いよりましたら、頂く事がこんな山坂をね人力を引いて、こう通っておる所を頂くんですね。とても人力だって普通もう、引けない程しに車が坂な所を人力を引いて、それで私ははぁこの皇上という事は、教祖の神の事だなと思いました。神は勿論天地金乃神ね。天地の親神様。
そすとその皇上というのはね、そりゃそのまぁ天皇陛下と言うても良いけれども、今の私共の思想から言うとピンときません。けれども是を教祖の神に、私共が帰依し奉った最後もう教祖の神様と、私ではまぁ渾然と一体になったものでなかなきゃなりませんからね。所謂任せるという事は、もう一つになると言う事なのですから。所謂親先生任せと言う事には、そんならもう私の心と同じになると言う事なのですから。
教祖の神様の奥城に、ご参拝になった方はご承知でしょうけれど。あの奥城に所謂遺号ですね。贈り名。贈り名には人力威しの尊と書いてあります。威すという事はあの、威嚇の威ですね。人力威しの尊と。それが教祖の神様の贈り名であります。ははぁ今日私ご心眼に頂いたのも、こういう所をです、人力で登る筈ではない所を登っておる。ははぁ是は教祖の神様の事だという風に直感したですけど。
だからここん所はどうぞ不自然に思わずにね、神と皇上とのと言う所を、天地の親神様の身であり、同時に教祖金光大神の身であると言う所まで、私共の信心が高められなければならない。話を聞いただけじゃ駄目。所謂私共が教祖金光大神に、帰依し奉るとすとならばね、そこまでいかなければやっぱだめなんですからね。やっぱそう言う積りで、是を頂いていかにゃならん。
「わが身はわが身ならず、みな神と皇上との身と思い知れよ」と。成程分からせて頂きゃ分からせて頂くほどですね。自分の身であって自分の身でないという事を、是は説明にすると、様々な角度から解けれると思うですね。成程自分の身なら自分のよかごとして見りゃいいのにと言う所です。そりゃいかにも出来るようです。是をもうちょっと重い方に持てれる。例えばこの頃私共の、三男が肉腫で手術を致しました時などは、ものを食べ様とも思うても食べられんのですよね。
お前自分の食べるのは、自分で食べたらいい。いや味すらが自分には分からんのです。それが本当は人間の実態であり、おかげを頂いて是を持たせて頂いておるのであり。おかげを頂いて言わばお許しを頂いて、飲ませて頂きもすりゃ食べさせても頂いておるんでだ。許されて生きておるという事なんです。だからわが身はわが身ならず。だからその理屈の上には分かりますがね。
昨日の御理解じゃないけれども、信心生活がどんなに考えても有り難いなぁと。勿体ないことだと、まぁ信心も出来んのに、相済まんことだと言った様な、有り難いなぁという、そういう生活。勿体無いなぁという生活がね、出来るという事。だから同じおかげを頂いておりましても甲の人は、一つも有り難いと思っていない。乙の人はそれをもう心の底から涙が流れるほど有り難いと思ってる。
そこで私共がですね、有り難いなぁ勿体無いなぁと言うて、生活が出来れる道がそこにあるとするなら、そういう道をやっぱり極めなければ行けないなということです。毎日毎日が不平不足のです、いうなら我情我欲いっぱいの生活がここにある。それこそわが身はわが身ならずという事が心の底から悟られて、今日もお許しを頂いて、お生かしのおかげを頂いておるいんだ。
目が覚めたのだ、手が動いておるのだ、足が動いておるのだと思うと、その事だけでも有り難くなれれると言う事はね、矢張り心事態がね、そういう有り難いと言う事になって来なければ、勿体ないと言う事になって来なければ、それは感じられる事ではない。理屈の上で、今私が申しあげて、皆さんが分かりましょう。いや私はここまで歩いて来ましたよと、なるほど歩いて見えられた。
けれどもそりゃ許されて歩いて来たのですよて。その証拠にはほんならあなたが例えば神経痛とかリウマチにでんなってご覧なさい。さぁもうびっこ引いたっちゃもう歩かれんごとなるじゃないかと。だから許されてここまで来たんだと言う事なんです。それで皆さんここではお引き寄せを頂いて有り難う御座いますと言う事になるのです。自分が参って来たんじゃない。神様に引き寄せられて神様に許されてお参りをして来たんだと。だから今日もお引き寄せを頂きまして有り難う御座いますと言う事になるんです。
だからいいや私が歩いて来たと言うて、生活するが良いか。本当に今日もお許しを頂かせて貰うて、ここまでお参りさせて頂いて有り難いと思う生活が良いかという事を考えて、だからそういう生活。そういう道があるならその道を極めなければいけないというのが、私は信心だとこう思うんですね。そこでほんならここん所も、例えば「わが身はわが身ならず」と言う事は、信心の根本になる所でしょうけれども、わが物はわが物ならずという事になるのじゃないでしょうかね。
久留米の初代というあの当時、まぁ大変な大徳の方でしたし、三代金光様が石橋先生を評して本当に真の人とはあぁいう人だろうと言われたほどしに、真の強いお方であった。私共も青年時代に、久留米におりましたからまぁ繁々とお参りさせて頂いて、石橋先生のお取り次ぎを頂いたんですけども、本当にそれは大徳を備えておられる方というのは、あぁいう方であろうかと思うほどしにやっぱり立派なお方でしたね。
所が私と同じで学校がない出来てない。いわばノートでもまぁただお書きになる程度の、学問しかなかった訳です。やっぱその当時から矢張り頭の良い先生がおられて、まぁ教学なんかが盛んな時代でもありましたしね。ある時にご本部から偉い言わば教学を身に付けられた偉い先生がお話しに見えた。所が石橋先生一緒にその事をお聞きになっておられるけれども、どうも言葉が難しゅうて分からん。
講題が信心生活についてと言う事であった。信心生活とはと言う事を、教学的にずっとお話しになるけれども、石橋先生そのピンと来られないわけですね。それで神様折角ご本部から話に来て頂いて、中心の私が分からんでは相済みませんが、大体今の先生はどう言う様な事を芯にしてお話になっておるので御座いましょうか。信心生活とはどの様な事でありましょうかと言うて、神様にお伺いをされたと言う事です。
そしたらね御心眼に、生まれたばかりの赤ん坊がね、見事な紅白の布団の上に休まれておる所を頂かれた。しかもそれにね水引がかけてある。お熨斗がついていて水引がかけてあると。はぁ信心生活とは、こういう生活だなと思われたという事です。こりゃもう御神徳を受けた者でなきゃ分からんです。どうした生まれたばかりの赤ん坊が、いわば布団の上に水引かけられてあるとお知らせ、あんたどんが頂いて分からん。
何の事やら分からん。ほんなら今日の私がここの皇上という所をですね、どう説明したらよいだろうか、今の教団ではこのみ教えはもう要らないとさえ言っておる。今の時代に合わないとこう言っておる。けれども教祖の神様が神様に頂かれておられる所の、このみ教えがそんなはずはないと思いますよね。それでこの皇上という事はどういうふうに、説明をさせて頂いたら良かろうかと思うて、私が昨日お伺いさせて頂いたら頂きますように、もうとにかく普通の人間では引いては登っていけない様な所をですね。
所謂驚くばかりの感じでね、人力を引き揚げておる所を頂くんです。ははぁ是は人力威しの尊。と言う事は教祖の神様のことじゃなぁというふうに分かる様にね、矢張り神様と通じないと分からん。信心生活でもそうであります。石橋先生はその事を、そう言う事でありますかと心に分からせて頂きながら、先生が言うておられる事を聞いたら、成程なるほどと合点して頂かれたと言う事であります。私共が生まれて来る時に襦袢一枚ぐらい着て生まれて来たちいうもんはおらんしですね。
あっちはなかなか大家だから、もう生まれてきなさる時から、こう綿入れば着て生まれて来なさったち言う事ないでしょうが。どげなやっぱ立派な人であってもです、やっぱり生まれて来る時には、もう本当に真っ裸なんです。ですからそれからほんなら親が、着物を例えばつけてやり、着せてやると言う事はね。自分のものじゃない。しかもねそういう生活というのは、その全てにほんなら神様がね、どんなに金襴の着物を着せて下さっても、自分は裸で生まれて何もない、無一物の我なのである。
それでほんなら頂かせてもらう、その全てがです神様の御物として頂く、わが身はわが身ならずであると同時に、わが物はわが物ならずという自覚、皆さん私の話しを聞いてから、金光様の信心ちゃなんでんかんでん、もう神様の物と思わなんちゃ、ちょっと惜しかごたる気がする。それをお供えせろというとじゃないですから、皆さん安心して下さい。どれだけの財産を持っとろうか、どれだけの沢山の物を持っておろうがね。
それが自分の物ではないとして頂く所にです、いうなら着物一枚着せて頂くでも、合掌しなければおられんのである。使わせて頂くならお金に致しましても、使わせて頂くという生き方。ほんなら俺が使うという生き方と、使わせて頂くという生き方は、どちらが人間幸せかと、今日私が言っておいた。有り難いと思える事を有り難いと思わない生き方と、不平不足を言う生き方はどちらが良いか。
本当に本当に真実、有り難い勿体ないと言うて、日々を過ごしていけれる道があるとするなら、そういう道を一つ体得しなければならないと言う所が信心だと。そういう信心を、ほんなら今日の御理解で言うと、わが身はわが身ならずと分かれと言う事なんです。だから、わが身はわが身ならず、神様のいうならばお預かりものとしてです、大事にしなければ相済まんと言う事になる。
私の婆などはもうそうでしたね、やっぱり分からないですけども、矢張りみ教えを頂いてから、それを思い込んでる。自分の体じゃないということを。私がまだそうですね、小学校の、一年か二年生ぐらいじゃなかったでしょうか。あの当時は、家の中に電気が二階に一つ、下に二つぐらいしかないと言う時分ですよね。長いコードを引っ張ってね、あっちん部屋さん持って行ったり、こっちん部屋さん持って行ったりという時分なんですよ。父がね晩に夕食の後に、必ずその母に母ですね。
私の婆にその小説を読んでやるんです。こんな厚い講談のそれ。それを今晩も読んで貰おうと思うてわざわざですねこの電気を向こうの敷居にまたいでね、こう電気を取ろうとした時に滑ってから落ちてここをこうち切ったんです。あらぁもう下に歯が出るごつ打ち切ったんです。もうそれは大変な私びっくりしました。それで直ぐ医者に行って言うてたら、もうそのものが言われんもんじゃけん、はぁ医者を呼べ医者を呼べち言う訳ですよ。私は婆と一緒に休みよりましたが一晩中、私も寝られませんでしたが。
金光様金光様、金光様でここをこうこやってやっとる訳ですね。御神米を貼った上から、金光様金光様と言うてそしてもう本当に私の不注意からですね、あなたの体に傷をつけまして相済みませんち言うてずっと言うとるです。自分の体と思っていないです。あなたの体にです私の不注意で傷を作ったと言う事は相済まん事ですというお詫びを、一生懸命しながら金光様、金光様と言い明くる朝今度は、ついとりましたですよ。
私はそれを目の当たりに見ましたから、そりゃもう本当にそりゃ、そういう意味でならね、私の一家はそりゃ不思議なおかげばかり頂いて来ております。ですからもう子供の時からね、うちはもう金光様の信心しなきゃ、自分な幸せにはなれんと思うとったです、やっぱり。思い込みが強かった。目の当たり見てきておりますから。あなたの体と言う事なんです、わが身はわが身ならずと言う事を。
学問は何もない婆ですけれども、話しを聞いて、それをそのまま素直に、そげなこつがあるもんかというような理屈を言わずに頂いたわけですよ。そこでお詫びが許されたわけですね。詫びておるでしょう。詫びれば許してやりたいのが親心じゃと仰るんですから。本当にあなたの体に、私の不注意で、このような傷をつけて相済みませんと詫びておる。一生懸命一晩中詫びて一生懸命、金光様、金光様ちここをくうくやって、引っ付けよる。明くる日には本当に綺麗に引っ付いておりましたです。
そこに赤く筋があるだけでした。前の晩はここに歯が出る位にあったです。もう本当にねそこに例えば、そういう信心言わば我身が我身ならずと言う事はね、本当にそうなんですからね。皆さんその気になってね、おかげを頂かなければ。だからほんなら我身は我身ならずだけではない。石橋先生が頂いておられる様に本当の信心生活というものはです一切のものが、所謂御物であり神様の御物であるという自覚が出来て来る。
身体もあなたの御物ならば、御物一切いわゆる、御金と言う事にもなりましょうか。全てがあなたの御物なのです。だからねほんなら借金を負うて、もうどうにも、払えないという人がです、本当にこの自覚が出来てです、今までは自分の金のごと思うて、場合には湯水の様に使うた時代もございましたが、結果において只今はこの様に、お金に難儀を致しておりますと。
あなたの御物をいわばわがまま勝手に使うたことをです、本気で詫びる気になりゃおかげになるですだから。これは金だって身体だって物だって同じ様な事が言えるです。わが身はわが身ならず、わが物はわが物ならず。そこでねそういういうならば思い方が、心の底からそうだと。ほんなら私の方の婆がねあなたの身体とこう言うておる位にです。純粋に、それを頂けたら、今言う様にお詫びをする事によって、怪我をしたその怪我が、奇跡な、と言わにゃおれないほどしのおかげになっておる訳です。
ほりゃもう絶対、注射やら針やら灸やら致しませんでした、私共の婆は昔の信者さんは、皆そうでしたよね。もうあなたの身体を灸で焼くてんなんてん、とても勿体のうしてそんなこと出来んち言いよった。注射なんかもうあなた身体に、こうやって針突っ込むてんなてん、そげな勿体ない事は出来ん。今頃の信者が聞きますとびっくりするごたるですけれども、そういう一つの思い込みがある。
あなたの身体としての思い込みがある。ですからほんなら物でも金でも、あなたの御物であるという自覚に立たせて頂く。そういう思いを持っての生活こそが、本当の信心生活だと、石橋先生が頂かれた訳です。これはねまぁ私自身のことを、お話ししてもそうです。私自身もそうです。どれだけのほんなら財を頂くなら、どれだけの立派な、お広前が出来ようがね、私の物なんかいっちょん思っていない。
私は色んな物好きですから、もう本当に、かけがいのないと言った様なものを破ったり、又は割ったりする事がありますよ。私はもう仕方のなかもんば割った時には、喧しゅう言うばってんが、その時にはいっちょん思わんと言う事は、わが物と思うとらんから言わんですむ訳です。こりゃどうするの家の宝物じゃったばいち言う事が要らん。いくら宝物だって神様の御物なのだから。
だからそういう生き方があるとするならね、そう思い込めれる道があるとするならね、そういう道をやはり、修得しなければ馬鹿らしいじゃないですかね、私共が。俺がもん俺がもんば取ったとか、割ったとかと言うて、腹立てんならん生き方じゃなくてね、ただ、あなたの御物を壊してから、本当に相済みませんでしたと、お詫びこそすれ。こりゃ惜しいことしたなんということを思わんですむ生活があるとするなら。
だからそういう例えば神様の御物である、親のものであると言う事が分かってきたら、どういう結果になるかっち言うとですね。私が一切が神様の御物という、これ俺が持っとる財産の全部が神様の御物にしてしまわんとじゃなかじゃろうか。名前替えでんせなんとじゃなかじゃろうかという風なね、不安がちょっとこう、あるような感じを受けたんですけれど。もうそう言う事はない。そう言う事じゃない。私共はそういう自覚が出来たら、そげんすりゃ、なお良かかもしれませんよね。
いっちょ大坪総一郎の名前にしてみてごらんならさい。皆あなた達の財産を。どげな風になる。こげな楽な事はないですよ。私が、引き出しはせんもの。例えていうならですね。そのかわりです、私の持っておる全ては、あなた方の物と言う事になる訳です。これが素晴らしいでしょうが。大きなおかげ大きなおかげと言うてもね、信心の、その根本の、そこんところが分からせて頂いて、願うところの大きなおかげでなからなければ、大きなおかげは受けられないです。
昔から言うでしょう、親の物は子のもん。そんならまず子の物が、親の物である事のです、いわば事実を事実として、一つ分からなければいけない。私共は生まれた時にそれこそ布一寸でん、握ってきたもんち、おりゃせんのだから。身に付けておる全てが、神様の御物なんだ。私の名前になっとると言うても、全てが神様の御物。だからそれを保管させて頂いておるんだ。
扱わせて頂いておるんだという頂き方だから、そこに実意丁寧が、自ずと出来てくる訳なんです。どうでしょう、天地の全てがね。私はデパートなんか行ってから、本当に思うんですよね。あの久留米にある、まぁちょっと新興宗教的な、まぁ教祖神がかって来る人が出来たんですよ。もう二十年ぐらい前に。ほらやっぱ私が言いよる、いう様な事をやっぱ言いよんなさったそうです。全部神様の物だ。それとあんたもうその当時は、旭屋ち言いよったね。今の井筒屋が。
あそこに行ってから沢山反物やらなんやら、黙って持ってきなさったち。これは神様のものじゃからまぁやっぱ、ちったあの気印の方になっとったでしょうたいね。ちったあんまりぼうけちからね。けれどもあぁた、その方の兄さんち言う方が、久留米で有名な弁護士さんでした。だから貰い下げは出来もうそりゃ、本当の話ですよ。だから私は皆さんが、はぁ今日の御理解頂いて、一切神様の御物じゃからち言うちから、デパート辺でごろごろ持ってくるごたることしなさったっちゃ、いけませんからね。
まぁちょっと言うとかんといかん。(笑い)親の物は子の物と、私共がね思うなら、そんなら、親のもんな子のもん。子のもんな子のもんち言うごたる頂き方じゃいかん。椛目に、そげな人がおんなさいましたですよ言うなら。人んもんな我もん我もんな我もんち言いよんなさった(笑い)。本当ですよ。やっぱそるけんそうにゃ儲け出しなさったですね。そういう生き方で行きなさるけんですねやっぱ。人んもんな我もん。で、
我もんな我もん(笑い)。成程そういう生き方もありますよ。だから儲け出すち言う意味でならけれども、ほんなら決して幸せじゃないと私は思うです。本当にそうですですから本当にですね、いうならば親の物は子の物と頂けたらね、なら子の物はまず親の物であるという自覚がね、出来て初めて親の物を自分がね、必要な物は必要に応じて頂けれるという程しの、おかげを受けられると言う事はこんな有り難い事はない。
先日あるお道の先生をなさっておられる方が、お参りして見えてから、最近の教団のあり方について、もう憤懣やるかたないと言う様にしてからお話になるんです。聞きよると、ほんなこて、やっぱそげな風にも思いますけれどね、そしたらね私頂きました事が、一本竹の子を頂いた。竹の子ご心眼に。そしてから半分から上が今の教団の生き方で、半分から下が、いうなら合楽的生き方だという事を頂いた。
だから上も下もなからにゃ出来んとです、やっぱ。だからその憤懣やるかたないち言うごたると、もう言うちから自分も何時まっでん、おかげ頂ききらんでおるじゃ、馬鹿らしいですからね。その先生に私は申しました。だから例えば上の方の真中頃辺りは、そりゃ竹の子も美味しいです。そんかわりもう頭だけで行くという、一番とっぺんの所だけは、是はもうおつまみにもなりませんからね。
だからそげんところははやり、ちょっと困ったもんですけれどもね、下の方が美味しい。ほんなら合楽的生き方は、その根の方を承っておるような感じが致します。教学をする人は、いわばそう言う事は、非常にやっぱ排撃致しますですね。神徳とまぁ教学と言ったら、何時も対峙しよる。だから対峙するのじゃない。上と下とが一つにならけりゃ一本の竹の子はない。だから、その根の方は、ちぃった食べられんごたっ所もある様な感じですね、合楽の場合。
だからそう言う所はね、私共は分からせて頂かならんが、その方が言われるんですよ。現代のいわゆる金光教がですたい、本当に所謂曲がり角に来ておるとか。その所謂壁にぶつかっておるとかと、今の様じゃもう教団は小さくなって行くばかりだと言うて、心配されよる。そしたら次に頂く事がね、私があんなものが好きだからでしょう。あのもう見事なこう陳列棚ですね。そして所謂美術品もずぅっと飾るような棚なんです。
それにね丁度あの、小石原あたり行きますと、あの民芸館に飾ってあるでしょうが。もう必ずこんなに大きな棚がずっとついておるのにですね、小さいねお茶飲み茶碗とか、盃とかが飾ってあるところを頂くんです。ちょっと皆さん想像してみてご覧なさい。折角立派な棚があってそこに飾ってあるとは、小さい盃とか茶飲み茶碗とか、小さい燗瓶とかがずらっとこうまぁこう飾ってあるわけです。
これで折角のこれだけの立派な棚が死んでしまいます。そこに相応しい大きな壺なら壺。素晴らしい美術品なら美術品をそこに丁度適当なね、私はその置いたらね、この棚も生きるだろうとこう思いました。所謂金光教の信心がこの棚なんですいわば。けども現在ほんなら金光教がおかげを頂け得ておるというのは、小さい盃か湯飲み茶碗ぐらいなもんなんです。まぁせめてですね、合楽教会のごたっとが九州に百軒なら、百軒あってご覧なさい。ほりゃもう金光教ちゃ大したもんだと言うでしょうね。
そりゃ百軒も二百軒もあるけれども、こうまか盃のごたるとばっかり、並んどるけんで、人は助かりよらんですいっちょん。だからははぁこれは信者教会を問わず、もっともっととにかく各教会教会がです、又は信者の一人ひとりがです、例えで言うなら信者の中にでも、あの甘木の平田さんあたりの様なおかげを受けた信者が、ほんなら九州に百人なら百人おってご覧なさい。
はぁ金光教ちゃ素晴らしいと言うて、ついてこんもんなおりませんでしょう。それがこげなこぉまつばっかりが並んどるもんじゃから、かえって可笑しい位な事それを見て今の教団を嘆いておると言う様な事。そんな事じゃなかろうか。最近私が言うとる大きなおかげを受けなければならない。今年こそは大きなおかげを下さろうとする働きが、非常に感ずる。そこでほんなら大きな信心をさせて貰い、大きなおかげを願わせて貰い。
受け物を作らなきゃならんと、まぁ私が必死になってこう皆さんに呼びかけておるわけなんですけれどもね。いうならばですこの棚に、相応しい信者にならなきゃいけない、金光様のご信者は。そこでですほんならそういう、大きなおかげを頂かせて頂くための、根本一つの原理ですわねこれは。それはわが身はわが身ならずが、まず分からなきゃならん。わが物がわが物ならずという、いわばおかげを頂かなければならん。
だからその辺の所が難しいといや難しいけれどです。それこそ好いた人の為ならばそれこそ、命預けますでも言えれるじゃないか。私共がもう本当に、金光大神に帰依させて頂いて、天地の親神様の信心をさせて頂く者がです、本当にそれこそ命預けますと言う事になったら、それはそのままが、わが身はわが身ならずという事になりましょう。わが物はわが物ならずという自覚が出来てくるでしょう。
そこにねいうならば天地の中の物、全てが私の物と言う様な事にまでなってくるんじゃないでしょうか。神様の物は氏子の物。氏子の物は神様の物為に先ず神様の物は、わがもんという風な頂き方をせずに、信心とは先ず私のものはあなたの御物であると言う頂き方を、先に極めなければならないと言う事になります。そういう極めてというのがです、昨日からも申しております様に、信心生活とは愈々有り難し勿体無いという、それを追求して行くことであって。
そういう有り難い勿体ない時にはね、火の中もまた涼しいと言う様なおかげが頂かれるもんです。ですから結局はやはり有り難くならせて頂く稽古を、日々させて頂かなければならないという事。同時に日常生活の上にもです、本当に有り難いことだなぁ勿体無いことだぁと言うたり、思うたりして生活が出来れる道があるなら、本当にそういう道を辿らせて頂こう。
そして大きなおかげを頂きたいならば、愈々天地の御物は、いわば私のもの。いうなら天地が自由になるほどしのおかげ。そういうおかげの頂けれる道なのである。少しばっかりの所をお願してから貰うと言った様な、けちなおかげではなくてね。親の物は子の物と頂けれる程しに、おかげを頂く為に、まず子の物が親の物、神様のものだと分からせて頂く研究をね、してみなきゃいけません。又それを実感として頂けれるための、様々な工夫がなされなければいけません。
どうぞ。